2014/04
女性科学者の地位向上に活躍した猿橋勝子君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ18]


気象科学館

 東京大手町の気象庁1階に気象科学館がある。元の中央気象台のあったところで、展示室には昔の気象台の様子から最新の気象観測機器や観測網などの説明がされている。
 現在、気象庁の気象研究所はつくば研究学園都市にあり、隣にある高層気象台とも非常に立派な施設である。明治時代の観測記録や晴雨計、海底地震計、ラジオゾンデなども展示してあり、見ごたえがる。

額田記念東邦大学資料室

 帝国女子理学専門学校の系譜を知るには、額田記念東邦大学資料室がある。
 創立者額田豊・額田晋兄弟により我が国で2番目の女子医学専門学校として1925年(大正14年)に帝国女子医学専門学校が設立された。その後、付属病院、付属看護婦養成所が開設され、1927年に薬学科、1941年に帝国理学専門学校が設立された。
 東邦大学は医学部・薬学部・理学部からなる自然科学系大学として1950年に誕生した。
 誕生の地大森には医学部と付属大森病院があり、理学部と薬学部は習志野キャンパスにある。額田記念資料室は医学部本館にあり、創設者額田兄弟に関する資料や女子医専、女子理学専門学校時代の資料などが展示されている。

 「日本の科学者101」(村上陽一郎編)に3人の女性科学者が登場する。このシリーズで取り上げた保井コノ黒田チカであり、残る一人が猿橋勝子である。
 猿橋勝子は化学者として「微量拡散分析法」を開発したこと、ビキニ環礁水爆実験の「死の灰」を分析して海水汚染を研究し、核廃絶に向けて活躍したこと、女性科学者の地位向上を目指して「日本女性科学者の会」を設立、「女性科学者に明るい未来をの会」を設立して「猿橋賞」を創設したことなどが挙げられている。


分析化学者
 猿橋勝子は1920年に東京で生まれた。電気技師の父のもと、母と兄との4人家族の豊かな家庭で育ち、都立第6高女(現三田高校)を卒業した。更に上の学校に進学したかったが、教育に理解のある両親も、女の子は嫁に行くのが幸せと考えていたようで、暫く会社勤めをしていたが勉学の希望は捨てきれず、両親を説得して1941年に帝国女子理学専門学校に入学した。
 帝国女子理学専門学校は新設校で実験施設などが整っていなかったため、夏季実習は外部の研究機関に行った。東京大学など国立大学や電気試験所などが実習先として選ばれたが、猿橋勝子は教授の紹介で中央気象台研究室を実習場所に選んだ。ここで三宅泰雄という素晴らしい指導者にめぐり合った。
 猿橋の実習テーマは「ポロニュームの物理化学的研究」であった。ポロニュームとは女性初のノーベル賞受賞者キュリー夫人が発見した元素で、祖国ポーランドに因んで命名された元素である。猿橋はこの研究を基にして卒業研究をまとめあげた。
 専門学校の教育期間は3ヵ年であったが、戦時下で半年短縮されて卒業となり、多くが陸海軍の研究所などに就職した。猿橋は中央気象台を就職先に選んだ。中央気象台にも軍事研究の依頼が有り、「飛行場における霧の消散の研究」に参画して北海道の根室や信州へ出張して観測をした。中央気象台研究室は終戦後の1947年に中央気象台気象研究所となり、猿橋は27歳で正規の研究員となった。
 気象研究所での研究テーマはオゾン層の研究や海洋における炭酸物質の研究など、いずれも微量物質の測定であった。猿橋は「微量拡散分析法」を開発し、海水に含まれる炭酸物質の量を調べた「サルハシの表」は世界的に活用される有名な表となり、これにより東京大学より理学博士号を授与された。


原水爆禁止運動
 1954年、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行われて、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被爆した。第五福竜丸が持ち帰った「白い灰」の分析を依頼された東京大学理学部は、微量分析を気象研究所の猿橋に依頼したという。その後、猿橋は三宅泰雄の指導で海水中の放射性物質を分析して、放射能汚染が海流に乗って拡がる様子や深海にも拡散することも突き止めた。気流に乗って遠くに運ばれた放射性物質を含む雨も観測され、原水爆実験禁止運動が盛り上がり、翌年1955年8月6日に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。
 大気観測や海流観測による気象研究所の測定について、米国の研究者から疑問が提示された。1962年、三宅泰雄の勧めで猿橋はアメリカのカリフォルニア大学スクリップス海洋研究所に行き、日米両国の放射能分析法の相互比較実験を行った。結果は猿橋の測定法の方が信頼性が高いことが証明され、猿橋に対する評価が高まったという。


女性科学者の地位向上
 女性の地位向上には多くの活動家がいる。日本女子大学校卒業の平塚らいてうもその一人で、1911年に婦人雑誌「青鞜」を発刊し、新婦人協会を結成して活躍していた。戦後は世界民主婦人連盟副会長をし、世界総会に日本から女性科学者を参加させて原水爆の恐ろしさを説明しようと企画した。その白羽の矢が向けられたのは猿橋勝子であった。1958年に「日本婦人科学者の会」が設立され、その代表としてウイーンで開催された世界大会に派遣されて「核実験の人体に対する影響」というテーマで講演した。
 日本女性科学者の会のホームページには次のように書かれている。
 ――「女性科学者の友好を深め、各研究分野の知識の交換を図り、女性科学者の地位向上をめざすとともに、世界の平和に貢献すること」を目的として、1958年4月に「日本婦人科学者」の名称で設立されました。この設立にあたり、当時女性国際民主連合副会長の平塚らいてう女史、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士をはじめとする世界平和アピール七人委員会から多大なご支援を頂きました。――r
 猿橋勝子は1980年、研究部長を最後に定年退官した。退官記念の祝い金を基に「女性科学者に明るい未来をの会」を創設して、自然科学分野で優れた業績を挙げた女性科学者を顕彰する「猿橋賞」を設けた。
 1981年には定員210名という日本学術会議会員に立候補し、女性初の学術会議会員が誕生した。任期は4年半。日本学術会議の中に「女性研究者の地位分科会」が設置された。これも恩師三宅泰雄の勧めで立候補し、三宅自ら猿橋推薦の選挙運動を展開したようだ。三宅は63歳で上顎癌の手術を受け、定年後はマンションの一室を研究室として研究を続け、76歳で肝臓がんの手術も受けた。82歳で亡くなるまで猿橋は師弟関係というよりは「父と娘」のように恩師の世話をしたという。猿橋勝子70歳であった。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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